グラス片手に パスツールとワイン

パスツールといえば、誰もが「狂犬病ワクチンの発明者」と口を揃えるでしょう。それだけではありません。そもそも「ワクチン」の名付け親でもあります。ところが、ワインの世界では、パスツールはワインの救世主なのです。

19世紀半ば、皇帝ナポレオン三世は既にフランスの主要輸出品となっていたワインについて深刻な悩みを抱えていました。1863年、著名な科学者達の推薦を受けてやってきた若きパスツールに「このところフランスワインが輸出国に到着すると飲めないような代物になっている。どうにかして欲しい。」と命を下します。事実、船でイギリスに送っただけで酸っぱくなっているワインが大量に出たのです。

その数年前、パスツールはリール大学でアルコール発酵の仕組みの研究を始め、発酵の原因は微生物であることを証明していました。またその微生物の違いによってアルコール発酵、乳酸発酵、酪酸発酵などの発酵違いがあることも発見していました。

パスツールは、ワインの劣化が多発している地区のひとつ、スイスに近いジュラ地方のアルボアへ向かいます。その昔パスツールが子供時代を過ごした町でした。皇帝の命を受けて変な紳士がやってきたと小さな町は大騒ぎです。パスツールは呉服屋の二階を借り受け実験室を作り、近郷のワイナリーから葡萄やワインのサンプルを次々と持ち込みました。

スライドの上はまるで「微生物の運動会」。パスツールは、質の悪いワインは微生物に冒されて病気になっていると推測します。苦くなったり、酸っぱくなったり全てワイン内に入り込んだ微生物が理由とみたのです。パスツールは、あの「白鳥の首型フラスコ」を使って、ワインが悪化する原因物質を追い詰めていきます。外気を遮断した状態でのフラスコのワインには微生物が発生しなかったのです。空気を与えると今までいなかった微生物が発生し、ワインは明らかに悪いものとなりました。こうした実験の繰り返しでワインが酸っぱくなっていたのも、微生物による発酵のため(酢酸発酵)と結論付けます。そして、ワインを劣化させないためにはワインの瓶の中の微生物を殺すのが一番と、ワインの味を落とさない程度の温度、55度で湯煎すればよい事を発見します。この「低温殺菌法」のおかげでフランスのワインは救われることになります。

このようなことから、現在のワインは、パスツール無しでは語れないとワインの世界では考えられているのです。そして又、私のような、世界はワインを中心に回っていると思っているような輩は、パスツールのこのワイン研究のおかげで狂犬病の研究も進んだんだと勝手に考えているのです。

狂犬病のワクチン研究は、1885年6月、犬にかまれた少年が服地屋二階のパスツールの研究所に担ぎこまれた事から大きく飛躍します。パスツールはそれまで犬でのみ実験してきたワクチンを少年に投与し、少年は快方へと向かいます。有名な話です。つまり、パスツールが皇帝の命を受けてから20年、ワインの研究のために狂犬病のエピデミック・エリアである東フランスにいたからこそ、狂犬病のワクチンの研究も出来、この初めてワクチンを投与された少年も飛び込んできた、と「ワインな人々」は考えてしまうのです。

ところで、パスツール研究所では医師であってもドクトールと呼びません。ムッシューと呼びます。それは、当のパスツールが医者ではなかったためだそうです。■

この稿は、医歯薬出版社『メディカル・テクノロジー』2005年8月号に掲載されたものです。
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