グラス片手に 1855年パリ万博

19 世紀半ば,あのパスツールにワインの品質向上を命じフランスのワインを無事に救った皇帝ナポレオン三世は,その他にも,実に多方面にわたって改革を行いました.いちばん有名なものは,現在のフランスの宝物ともいえる「パリ」をフランス革命の反省から今の姿にしたことでしょう.

フランス革命の際,革命側群衆は中世以来の狭い街路のなかを自由に走り回り,バリケードを作り,敷石をはがして投石を繰り返しました.元来,広い野原での戦争のために訓練された王側の軍隊はまったく手も足も出ませんでした.60 年後,皇帝の命を受けた首都パリを擁するセーヌ県のオスマン知事は,旧市街を徹底的に取り壊し,軍隊が移動できる大きな街路を放射状に作りました.いくつかの地点からセーヌ川にかかる複数の橋を監視下におくことができ,反対側は数キロ先まで見渡せるなど軍隊の戦術にあった街づくりでした.また,夜間でも反乱に対応できるように,町のいたるところを明るくするガス灯も導入しました.

治安対策ばかりではありませんでした.当時のアパルトマンには,水道はもちろん,トイレもなく,パリジェンヌ達でさえおまるで用を足し,その中身を窓から「パルドン(pardon)」と道に流していました.道路は糞尿を流す下水の役目を果たしていたのです.当然,台風のように数年に一度疫病が流行り,パリだけで数万人が死亡していました.これに対してオスマン知事は 500 km にわたる地下下水道を作り上げたのです.

こうしてパリの街はきれいになりますが,皇帝のもうひとつの改革はワイン産業でした.1851 年ロンドンで大成功を収めた万国博覧会に対抗して,皇帝はフランスでも開催することを決めます.そしてただのお祭り騒ぎだけでなく,国外から来る人々への大きな宣伝のチャンスであると,フランスが作り出すいろいろな物産を万博に展示するよう国中に命を出します.とくに皇帝はワインを何とか世界に売り出したいと,フランス各地に「良いワインを選び出し,展示するように」とじきじきにお触れを出します.

このときすでに,ブルゴーニュやシャンパーニュでは農事委員会が中心となり,格付けや葡萄畑の等級付けが出来上がっていました.もうひとつの名醸地ボルドーでは,それまでの実績などから,ワイン商の間である程度の不文律的なリストはできていたものの,公的に認められたものはありませんでした.ボルドーの商工会議所は,早速優秀ワインメーカーのリスト作りを始めます.そして出来上がったのが,現在でも厳然としてボルドー・ワインの市場での価格を左右する『1855 年のオーメドック地区の格付け銘柄』です.

この『格付け表』には Grand Cru とよばれる 60 のシャトーが載っており,1 級から 5 級に分かれています.ブルゴーニュと双璧をなすボルドーのたくさんの作り手の中から選ばれた 60 のシャトーですから,文字通り top of top です.5 級から4 級,4 級から 3 級と級が上がるごとに,倍々ゲームで価格が高くなったという当時の記録も残っています.現在でも,1 級のワインは作柄がよい年には日本での価格でいきなり数万円になることもあります.

1855 年のパリ万博で,こうしたマルゴー,ラトゥール,ラフィットなどの 1 級ワインがデビューし,その座を確固たるものにしたのです.同じ万博で硝子細工のバカラが,銀食器のクリストフルがグランプリを取り世界ブランドとなります.すべてが皇帝の思惑通りでした.今からちょうど 150 年前の 1855 年とは,はじめて「ブランド商法」がつくられた年でもあったのです.

この稿は、医歯薬出版社『メディカル・テクノロジー』2005年9月号に掲載されたものです。
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